「できる」までの距離
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ジークンドーは、相手と対峙したときに、何をすべきか教えてくれます。
最初にこういう事をやって(第一選択)、次にこういう事をやって(第二選択)と言う手順がハッキリしています。
こういう風にできている武術は、実は滅多に無いんです。
というのも、こういうテクニックというのは、元来個人的なものか、秘伝に属するもので、普通は簡単に他人に教えないものだからです。
武術というのは、一つ間違えば自分の命を失うものですから、自分の持っている技術を相手に知られるのを嫌います。
逆に相手がどんな技を使うか分かっていれば、防御するにしても逃げるにしても、断然有利です。
だからそういうことが分かっていても、簡単には弟子に教えません。
また個人の体格に応じてこういうテクニックは変わりますから、たとえ教えたとしても教えられた人間に意味があるかどうかもわかりません。
たとえば相手の懐に飛び込むときに、相手の目に向かって牽制するというテクニックは、ある程度身体が大きくなければ役に立ちません。
背の低い人間が2メートル近くある相手にそんなことをしても、意味はないでしょう。
背の低い人間は、相手のスネを蹴って入る方が有効です。
だからこういうテクニックというのは、「個々人の体格に合わせて、自分で掴むもの」とされるわけです。
つまり、技を使えるようにするためには、様々なテクニックを使って自分の技が使えるように準備したり工夫したりする行程が必要で、そのための手順やコツを自分なりに確立しなければならないのです。
ジークンドーは、一般人でも銃を持っているアメリカという場所でできたせいもあるのか、とにかくまず何をすべきかと言うところに大きな重点が置かれています。
たとえば、必殺の蹴りや投げを持っていても、その蹴りや投げが使えるような状態に持ち込むのは、そんなに簡単じゃありません。
相手が2メートル先にいて、こちらに銃を向けている。
そういうときに自分の持っている技をどうやって使える状態にするのか、これは空手や柔道では教えてくれません。
またそう簡単には、体系化出来るモノでもありません。
だからこそ、ジークンドーの教授法というのは優れている訳なんですね。
使えなければ意味がない。
受験勉強も受験のための勉強ですから、使えないと意味がありません。
中線定理だとか、和積の公式だとか、三角関数だとか、覚えただけでは役に立ちません。
自由自在にそれが使えるようにならないと、全く意味がないわけです。
これらの定理や公式が使えるような問題だと見抜いて、使えるように問題を読みほどく必要があるんですね。
そのために最初に何をすべきなのか?
塾や予備校の講師なら知っています。
そしてその次にどういう解法パターンが有効なのか、塾や予備校の講師なら知っています。
これは彼らが問題に対し、第一選択や第二選択を適切に選べるからです。
どの解法パターンが受験ではよく出てくるか、たまにしか出てこない解法パターンがどれか…という「でる順」も講師には分かっています。
がしかし受験生には、それが実感として分かりません。
理由は簡単です。
受験生には、経験が圧倒的に足りないからです。
次は、とにかくまず解く